師円楽の引退に思う  [3]               


●寄席の凋落

【テレビへ開かれた扉】
それにしても、なぜ落語家が本来の芸人の活動を軽んじてまで、タレント活動に熱を上げるようになったのか?という疑問が当然起こる。その答の一つには、時代の波に迎えられたというのが挙げられるであろう。ラジオ、テレビの誕生により、番組を充実させるに安価で、演者の技術が高く、伝統文化でありながらとても分かりやすくウケがいいと、良いことづくめの落語にまず局が食らいついてきたのはすごく当然の成り行きであったと思われる。次から次に日々、時々刻々と新しいものを大衆に示さなくてはならない局にとって、落語家の存在は宝の山ではなかったか。そして迎えた敗戦。人々は心身共にひどいダメージを負っていた。貧しかった。明るい光が欲しかった。落語家にはごく自然にマスメディアへの扉が開かれた時代が到来した。時代の微笑みが落語家の上にあった。

【寄席は減り続ける】
これによってどんどん落語家の知名度は上がり、日本全国津々浦々までにもその存在は知れ渡る。昭和の落語ブームが煌々ととして花開き、輝いた。これほど落語がメジャーな存在として日本人全てに親しまれた事は、かつて無かったろう。ところがしかし、寄席にお客さんがさっぱり来ないのである。円生、志ん生、文楽、金馬という一流の芸人がきら星の如く顔を揃えている寄席でも。落語のテレビ、ラジオのライブあるいは録音録画を見聞きしてにわかには信じがたい。しかしそれが事実である証拠には、その頃からどんどん寄席の数は減り続け、今では都内に5,6軒という有様にまで落ち込んでいる現状を見れば間違いでないことが分かる。強力なライバルがテレビであり、映画であり、そこにお客さんを取られて行く。お客さんどころか、当の落語家までもがテレビ、映画の出演者に廻っているではないか。マスメディアでは大成功を納めているのにもかかわらず、落語家は自分たちの足元の寄席がどんどん衰退するのをなぜ止められなかったのか?

【寄席の悪循環】
今落語ブームが到来しているという噂をよく耳にする。確かに寄席のお客さんの数が以前に比べて多くなっている。テレビドラマのお題としてもちょいちょい取り上げられるようになった。これは以前では考えられなかった、ちょっと不思議な現象ではないだろうか。特別なスター的存在が寄席から排出されたわけでもなし、テレビタレントが多数出演するわけでもないのに、なぜこの様に注目されているのか。戦後、寄席からはスターだの名人といわれる芸人は生まれないことになっている。なぜか?まずは上に書いたように寄席にお客さんが来ない。そうすれば寄席のギャランティは当然満足に出ない。そうなると売れている忙しい芸人ほど寄席を敬遠する。お客さんから見ると寂しいプログラムになり、魅力が無くなりよけい足が遠のく。高座に上がる芸人は緊張感がないので、いい芸を披露できない。そしてますます寄席が衰退してゆく。落語家は寄席に何らステータス、出演することの権威やら喜びを感じなくなっていった。寄席は今や単なる稽古場という地位にまで墜ちてしまったのだ。

【見えない寄席の目標】
上で、テレビが視聴率という唯一の価値観しか持たないが故、権威が失墜しつつあると述べた。さてそれに比べて、落語家の稽古場に失墜した寄席というのは一体どこに価値観をおいているのだろうか?席亭(寄席のオーナー)は寄席という財産を受け継いで、これをどのように活用しようと計画しているのか?そこに出演する落語家も寄席が活性化するための何か長期のビジョンを持っているのか?それら大事な事を僕は落語家になって一度も見聞きした事がない。ホームページを覗くもその片鱗もうかがい知る事は出来ない。となれば、この今のブームが去ったらどうなるか?想像するに、その答えを考えた時に虚無、脱力感に襲われない落語家は誰一人おるまい。また元の冷え切った状況に戻るだけか?かつてのマルチタレントブームとは、喜び勇んでテレビの世界に飛び込んだという積極的な理由以上に、選択せざるを得ないという消極的事情があり、かつまた寄席に未来が見えないという否定的な理由で落語家は寄席を離れていったのだ。僕はただ一人の落語家を除いて、この問題に真っ向から着手した例を知らない。


●若竹の教訓

【歴史的快挙】
円楽が寄席若竹(1985年〜1989年)を江東区東陽町に建てた。個人の資産を投入し、土地から建物(6階建てビル。寄席は2,3階)を全て一人の落語家が負担するという歴史上かつて無いことをした。この様な快挙を成し遂げたのも、ひとえに師匠がビッグな存在であったからだろう。マルチタレントの第一線で働きに働いたその賜である。そして今ひとつは、師匠の抱えた負い目である。落語協会分裂騒動以降、円楽一門は寄席から閉め出されてしまう。僕が師匠の門を叩く時には寄席出演ができない事で随分とためらいがあった。しかし、入門してわずか二年半たった後にまるで降って湧いたようにこの寄席が立ち上がり、自分の運の強さに感謝したほどであった(偶然にも自宅から歩いて15分の所に)。それから半年後には二つ目になれたので、タテ前座からその上に昇進と、ちょうどいい時期にも当たった。円楽一門20名弱+若干名の他協会の落語家で寄席一軒の出番を廻すわけであるから、出番にも恵まれた。これ以上ない恰好の“修行の場”を与えられ、前途洋々そのものであった。

【箱物的発想】
寄席が減る一方の流れの中で、個人の力で建てた寄席。初めは世間の話題にも上り、珍しもの見たさと判官贔屓が手伝って多くのお客さまが席を埋めて下さり、誠に上々の滑り出しを見せた。しかし、そのご祝儀相場の時期が過ぎるとどうにもいけない。やはりこの寄席も悪循環[売れている芸人は出ない、お客さんが興味を無くしてやって来ない、高座で芸に熱が入らない、ますますお客さんが離れる]の中にどっぷりと浸かってしまうのだ。さらに悪い事に、芸人の数が少ないがためによけいにお客様の飽きが早く来る。若手が中心であり、円熟した芸を持つものが少ないので、はっきり言ってレベルが低い。せっかく新しい綺麗な寄席が出来ても、ゆったりした座り心地のいい椅子が用意されていても、これでは客足は遠のいてしまう。お客さんは当然お金を払って見に来るわけで、しかも見たいのはいい芸であるわけで、立派な建物ではない。

【運営システムの欠落】
希望とは頭脳を満腹にする最高の料理である。若竹が出来た当初は誰もが目の前に明るい光を見た。そして目が眩んで、冷静に未来を見通すことをまるで放棄してしまった感がある。くり返すがその当時はまだ自分は入門して3年前後という、世間知らずでもあり、自らが身を置く落語の世界についてさえも実に疎かった。しかし、今にしてみればはっきり見える「何という脆弱な体勢であったことか」と。若竹にいるのはオーナーの円楽と、出演者の落語家と、電話の問い合わせに答える事務員と、わずかこれだけの構成だったのだ。これで長期継続できる体制と言えるだろうか?寄席を“修行の場”と位置づけるあまり、運営するという頭が誰にもなかった。寄席を支える母体つまり、運営する組織が、全く組まれていなかったのである。どのようなプログラム、企画を立てる?どうやって資金を集める?いかにして支援するお客、スポンサーを取ってくる?どのようにして宣伝をする?どうやって若手を育てる?これらの全てが用意されていないというのであるから、今考えると唖然としてしまう。

【師弟共に疲弊】
莫大な借財というものは、どんなに優れた人物であっても意気軒昂とした魂の活動を鈍らせてしまう。まず円楽を襲ったのは何億という額のプレッシャーである。それを返すためにはもちろん働いて金を稼がなくてはならない。そのためにはわずか160名のキャパしかない若竹へなぞ出演している場合ではない。儲かる営業の仕事を次々にこなさなくてはやっていけない。さらに借金返済の上に被さるのが、若手の伸び悩みから来る世間の風当たりの強さである。良い芸人が出ないのであるから良いお手本がいない、まずは円楽がいない。そして出番は嫌でもふんだんに与えられるから、切磋琢磨という競争がない。では、弟子はそこにのほほんとただ胡座(あぐら)をかいていただけかというと、決してそうではない。夜の貸席に毎月独演会をするべしというノルマを課せられていた。弟子であるから通常の半額で貸しては貰えるが、さすがに毎月となるとさすがに応える。それでも僕らクラスは月イチで済んだが、上から4番目までの弟子鳳楽、好楽、円橘、楽太郎はなんと月サンであるから、そうとうにきつかった事であろう。寄席の悪循環という環境の悪さの上に、倦怠感という精神のダメージが師弟共々どんどん積もり積もってゆく。結果、4年という短命で幕を閉じた。

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