師円楽の引退に思う  [4]               


●落語家の体質改善

【なぜ落語家は弱いのか】
自分の恥を暴露するが、最近大事なお客さんを二組しくじった。それも、僕の「寄席を全国に100軒」という話に共感して、地方寄席を立ち上げてくださったお客さんと喧嘩別れをしたのだ。最終的に我慢が切れたのが「客の気持ちを考慮せず、感謝の気持ちが足りない」の言葉であった。自分でも“ヨイショ(お世辞)”が足りない奴と日頃から反省している。しかし、芸人であればこの辛酸は誰もが一度は必ず舐めているはずである。自分の真意が相手に伝わらないもどかしさ。芸人としてのプライドと営業の板挟み。喧嘩別れして、つくづくお客さんと自分とのクッションになるマネージャーが欲しいな、と思うのは僕だけではあるまい。個人営業の悪循環[資金がないので事務所を持てない、質・量共に満足な仕事が入らない、活躍の場が少ないので収入は少ない、芸に対する前向きさが薄れる、金が入らないので事務所を持てない]が始まる。ひたすら生き延びるためのヨイショという処世術しか術(すべ)がない。

【グランド・デザインを分断するもの】
この度相撲の八百長疑惑を巡って裁判が起こった。僕に言わせれば、勝敗操作は相撲の歴史の一部であり、相撲を純粋なスポーツと見る方が野暮、なのである。暴露事件で驚いたのは「横綱が8割方していたのか!3割程度かと思った!」である。夢をどこかに残しておいてもらいたい。相撲協会よりも不思議なのはNHKの出方である。この八百長疑惑に突っ込みを全く入れない。公正無私を看板に掲げる報道姿勢はどこに?と首を傾げたくなる。相撲協会は勝負を演出し、NHKはスポーツ番組を演出する。似たもの同士が手を取り合い、演出することに夢中になり、相撲の未来にまるで考えが及んでいないように見える。もしも・・・相撲界の抜本的改革をするならば部屋制度を解体するのが一番の近道ではないかと考えるが。師弟関係で結ばれたあまりに細かい人の群れに枝分かれしすぎていて、グランド・デザイン(全体にわたる壮大な計画・構想)が組みにくい体質になっている。しかし、親方にとってこれはどうあっても承服できるわけがない。親方株を手に入れるには莫大な金が必要であるから、部屋を手放すわけにはいかない。そしてタニマチ(ご贔屓)は部屋の支援者であり、相撲協会を支えるところまでには至らない。親方はタニマチの顔を立てるために、なお一層部屋に執着する。いつまでたっても部屋同士の意地の“突っ張り合い”に終始して、これが八百長の温床となる。これを落語家は対岸の火事と暢気に構えられるか?世上のアラで単に話のネタだけで終わらせるのか?

【市民寄席の誕生】
2006年9月15日大阪に天満天神繁昌亭が誕生した。有志からの募金が基金となっていて、まとまった額以上の進呈者の名前を提灯に書いたり、プレートに名を刻んだりして館内に顕彰をしている。建物はその募金でまかなったのだが、用地はというと大阪天満宮の宮司の好意により、無料で提供されている。繁昌亭を応援する外部団体として、サポーターズ倶楽部 百天満天百(ひゃくてんまんてんひゃく)が存在する。他の寄席と比べて支援体制が厚いのが特徴だ。そして肝心なポイント、寄席を個人の持ち物にしない、というところもちゃんと押さえてある。2007年3月現在、席亭と呼ばれる人もいないらしいから驚きだ。僕には若竹に比べて繁昌亭の方が長期継続の運営というのを睨んでいるのがひし!と伝わってくる。なぜ東京に先駆けて大阪でこの様な市民の力による寄席の立ち上げに成功したのだろうか?大阪では「お笑い」が持つ力は強大である。背景には、吉本興業の先進的な営業が支えとなり多数のお笑い芸人をテレビに排出し、テレビを一日見ればお笑い漬けになり、関西弁を喋る人はお笑いをマスターしないと周りから浮いてしまう、的なものがある。大阪の落語の存在は吉本に脅かされ、東京と比べものにならないほどに弱く、影が薄いという。寄席立ち上げの原動力は、危機感らしい。大阪の落語家が皆共通して持たざるを得ない意志がそこにはあったのだ。

【団結力の必要性】
先に自分がお客さんをしくじった話をしたがその背景には、客[以下お旦(オダン)]と芸人が対等の立場になれないという大きな問題が横たわっている。落語に対する愛情はあるが結局はお旦は素人さんであり、落語界の将来についてまでは責任がない。お旦は目の前の落語家を贔屓にしたい一心で視野が狭く、芸人を猫可愛がりしかできない。そうなれば落語家が猫を被るのは極当然の成り行きとなる。つい最近になって「御乱心」という暴露本を初めて読んだ。やはり円楽の弟子であるから、できれば読まずにおきたいという願いがあった。複雑な感想はあるのだが、なぜか8代目桂文楽を思い出してしまった。文楽師は人の悲哀を題材にした噺を得意とした。「富久」では幇間が主人公だが、「鰻の幇間」「愛宕山」「つるつる」も同じである。思うに噺の中では幇間という設定ではあるが、本音は同じ芸人の落語家、つまり自分自身の悲哀を噺に投影したかったのであろう。スポンサーと生涯蜜月関係を続けたいのはどの世界でも皆同じである。しかし、対等な立場にならなければ最後には言いなりになるしか生きる手だてがない。だが、それを打開しようと要求を出すのを、落語家個人のワガママととられては元も子もない。落語家の統一された意思、グランド・デザイン(全体にわたる壮大な計画・構想)として受け取ってもらうためにはどうするか?「御乱心」では落語新協会設立の失敗の第一の原因は、団結力を保てなかったことと読みとれた。噺家は他を頼まず個人で活動する。それは未来永劫に渡って崩れることはない。芸人から自由の魂を抜いてしまえば何の存在価値もない。しかし、今のジリ貧の状況を修正し、未来を建設的に考えるなら、統一された落語家全体の意志・目標がここにあるというのをはっきりと、世間に向けて掲げておかないといけない。


●お客さんを育てる

【落語家の総意とは】
以上長々と批判ばかりを連ねた。マルチタレントはもう古いと言い、テレビは芸人にはお呼びでないと言い、席亭は運営の仕方を知らないと言い、落語家はごますりしか知らないと言い、お旦は猫可愛がりをすると言い・・・もう過去の否定は十分すぎるほど並べ立てた。では、肝心な「未来をどうするか?」である。とにかく、我々落語家が一番欲しいものは何か?大事にしなければいけないものは何か?をしっかりとイメージして、そこにはっきりと目標を定めなくてはいけない。個々の落語家の欲や、夢の話ではない。今現在の落語家を含め、将来の我々の後輩にとっても必要不可欠なものは何か?を考えるのだ。その時注意しなくてはいけないのは、個々の落語家の成功体験を元にしてその目標を割り出すと、必ず失敗すると言うことだ。成功した人は輝いている。いわばカリスマで、とかく世間は注目し、側にいる我々も目を奪われる。しかし、しょせんそれは個人個人の活動で得た結果なのであり、その結果は個人にしか還元されず、それが波及して周りの落語家が輝き、豊かになることなどは決してない。もしその成功体験者の言葉を聞くとすれば『俺を見習って、俺のように努力しろ』だけである。そして、それを鵜呑みにすれば文字通り“鵜の真似をする烏水に溺れる”式に失敗をするのが“オチ”である。落語家の過去、現在、そして未来に渡り必要なものはいったい何か?落語家はどこで育つのか?落語家はどこで仕事をするのか?落語家が落語家らしく輝くのは一体どこか?落語家全体の総意は「もっと多くの寄席が欲しい」「寄席を大切にしたい」以外にあり得るだろうか。

【ファンは人を育てない】
僕は浦和レッズのサポーターである。自分の仕事柄お客様方に支援をお願いする立場であるが、自分もまた応援をする何者かを持つのはとても嬉しいことである。子供の頃は“巨人・大鵬・卵焼き”と言われるように大のジャイアンツ・ファンだった。毎試合テレビで見て、ジャイアンツが勝てばそれで満足だった。それが最近どうして野球を、いやジャイアンツを見捨てたのか?僕が毎試合をテレビで見たと書いたが、ジャイアンツというのはテレビの中のヒーローであり、ヒーローは勝ち続けなくては存在価値がない。それがドラフト制度の導入以降他のチームも力を付け、優勝から遠ざかっていった。そして、テレビで見てジャイアンツを応援しているような気になっていたのだが、これは単に視聴率を上げるのを応援しているに過ぎないというのに気が付いたのだ。僕がしきりにテレビと視聴率を恨むことの始まりは、実はここにあるような気もする。もういい加減くどいようだが、あえて主張する。テレビから芸人は育たないのだと。テレビで野球チームが育たないように、落語家もテレビの中から生まれ、成長するなどあり得ない。テレビを見るのは「fan=熱狂者(辞書による)」であり、彼らはひたすらにテレビの出演者を盲信し、ただただ出演者を受け入れるだけしかできない。従って、立場的にテレビの出演者はファンよりも大きく、高いのであり、その立場が小さく、低いファンが出演者を育てるなどあり得ようはずはない。子供が親を育てるなど、考えるだに滑稽な妄想である。

【落下傘型】
前に『テレビは短期集中のイベント体質も合わせ持つ』と書いた。イベントとはお祭りであり、長期継続するものではなく、そこから人が育つことはない。サッカーのワールドカップは世界で最大のスポーツ・イベントだ。この4年に一度の大イベントが毎日続くわけがなく、毎日あったらきっとすぐに飽きられてしまう。ジダンや中田でも続けて3回出るのが限度であり、もしわずか3回のイベント体験だけで、彼らが一流の選手になれたのなら、これは驚異である。そこに出るまでには各国のサッカー・クラブに所属して、そのゲームに頻繁にスタメン出場して、長い時間の経験を積んで、激しい競争を勝ち抜いてきたという実績を持たなくては一流の存在などあり得ない。イベントが必要ないという話ではない。これはもちろんありがたい話で、多くのお客さんに注目されたいが為に落語家をしているわけである。なにが問題かと言えば、イベントではお客さんをも含めた「人」が育たないと言うことである。イベント型の落語会、それを僕は「落下傘型落語会」と呼んでいる。これは予算がふんだんにある企業、自治体が企画する寄席が主になる。一回で多くのお客さんを喜ばせるために、大きなホールを使う。それには人気の高いマルチタレントを呼ぶ。テレビで見る有名人であるから、ファンがどっと押し寄せる・・・これである。お客さんとしては有名人を目の前で見られるわけであるから熱狂的になる。が、先に書いたように、ファンは人を育てられない。ひたすら天から舞い降りてくるマルチタレントを受け入れるばかりである。恐らくこの「落下傘型落語会」がクライアントの何らかの理由でうち切られた後で、お客さんが主体となり「落語会を開いてくれ!」との大合唱となる、なんてことは絶対あるまい。間違えなく「そんな落語会があったのかしら?」と冷めたものだ。芸人と一緒にお客さんもまた成長しなければいけない。

【寄席を育てるのは支援者】
自分が浦和レッズのサポーターだと書いた。一度埼玉スタジアム2002に足を運んで試合を見てみるといい。中央には綺麗に整備された、目に染まるような青々とした芝生に覆われたピッチが広がる。スタンドは詰めかけた真っ赤なサポーターで埋め尽くされ、歌い、うねり、勝利という一つの目標で団結する。サッカーをするものは誰もがこのピッチに憧れ、ここでボールを蹴ることを誇りとする。そして、応援するチームが気の抜いたプレーをすると容赦なくブーイングをかませる。レッズの弱い頃、満員のサポーターが応援をサボタージュするという、おかしな応援を見た。愛の鞭というやつだ。支援者と選手は対等の立場でなくてはならない。支援者(サポーター)はお旦(ご贔屓)でもなく、ファン(熱狂者)でもない。彼らは一人一人が自分のペースでチケットを買ってスタンドに入るという、ごく普通の市民なのである。そして、レッズから小野伸二が抜けようと、闘莉王がどこかに移籍しようと、未来永劫に存続し続けるレッズというチームを生涯に渡って応援し続けるのだ。寄席の場合にはその寄席専属の芸人が出来るわけではない。サッカーの選手以上に目まぐるしく変わる芸人を、寄席から永遠に応援など出来るものではない。したがって、最終的には未来永劫に続く寄席を支援するということになる。寄席が栄えれば、自然良い芸人が育つ。環境の良い寄席で喋ることを誇りに思わない芸人はいない。そして良い芸人が育つ寄席はますますお客さんを吸着させる。つまり、寄席の支援者とは、自分自身が、個人個人が寄席を育てる主体であるという認識をすることだ。自分が寄席と芸人を育てているという責任感と誇りを持つことだ。そして、未来の支援者にもこの姿勢を繋げるという覚悟を持つことだ。これが、お客さんを育てるということである。

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