芸者(宮本武蔵)
  元和偃武(げんなえんぶ)。これまでは戦乱の中にこそ武士の存在があった。それが大阪城の落城で終焉する。余熱が残り、用無しとなった浪人が徘徊することになる。武士の存在とはなんぞやが問われていく。晩年の武蔵も人切り包丁(刀)を振り回すことが自分の存在の全てでないと主張せざるを得なくなった。徳川家三代の将軍の剣術指南役、柳生宗則(やぎゅうむねのり)は沢庵(たくわん)和尚に感化され、また吉川英治によると武蔵も彼の触発を受け、「剣禅一如(けんぜんいちにょ)」を唱えるようになる。つまり、「強さ」と「勝ち」にこだわるのを捨てよ、「無」の心になれと角を削られてゆくのである。
 栄花直輝(えいがなおき)という現在世界最強ともいえる現役警官の剣士がいる。NHKのドキュメント番組の中で、長年のライバルから一本取るのに『計算ずくでは駄目で、無心になった時初めて道が開けた』と、時代を隔てても彼らの言い分は全くに符合するのである。してみれば剣という物は時代の過渡期を迎え用無しになったところで「道具」から「道」へと転換を遂げ、新たな存在に昇華したと言えるのではないか。だが、これも初めから寸止めルールに守られ、防具を付けずに叩き合いを禁じてしまったのではあまり大きな飛躍は望めそうもない。
 武蔵が生きた当時、剣術家のことを芸者と呼んだ。噺家は芸人である。まさか落語家が白刃の中を潜ることはないのだが、もし真剣ということを避け笑いと人気に執着し、「上達」という求道心を失い、彼ら言うところの「無」の境地で相手に臨むというプロセスをすっ飛ばすようになればどういうことになるのか?間違えなく「型」だけが支配する迫力無く、感動に欠けるところに落ち着くに違いない。
宮本武蔵 肖像画
枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)
武蔵は鳥を主題にするのが好き
だったようで、この絵にはモズを、
その他雁、翡翠(かわせみ)など
も描く。
武蔵描いた、布袋見闘鶏図
(ほていけんとうけいず)
軍鶏の戦いを高見から覗き
込んでいるのは自分の姿で
あろうか?
杖道大会での一コマ
 塚原ト伝(つかはらぼくでん)が大阪に行く途中の船上でのこと。ある修行中の若者が余りに武芸の自慢をするのをたしなめると『では、その方の言うことが正しいかどうか、勝負の上で明らかにしようではないか』『よかろう。がここは狭い船の中、迷惑にならぬようにあの島で立ち合おう』若者は島がすぐそこまで来ると待ちきれずにパッと船から飛び降りる。ト伝は「船を返せ!」と船が戻る。『卑怯ではないか』『これが私の無手勝流(むてかつりゅう)だ!』・・・落語の「巌流島」のモデルといえそうである。しかし、もっと遡れば中国の古い小咄が原点だと言う。してみればト伝はこの小咄をそっくりパクってしまったわけであり、相当な洒落ものということになる。
 宮本武蔵が今年(2003)のNHKの大河ドラマで主人公となっている。しかし、これはあくまでも吉川英治の小説上の「演出」がかぶっている武蔵像である。実際はどんな手段を講じても相手を倒すことに執着する。餓鬼道に落ちた亡者よろしく「勝ち」しか念頭になかったらしい。良く言えば心理戦ではあるが、佐々木小次郎をやる時には約束の時間を大きく違(たが)えたりして、そのやり方はとても涼やかとは言えない。しかし、その鬼のような必殺剣術家、武蔵と引き分けにまで持ち込んだ武道家が実際に存在したというから驚きである。「夢想権之助(むそうごんのすけ)」という。この男相当な独創家であり、かつまた度胸が良かったのか、何でもない四尺余り(約130センチ)の杖(じょう)で戦うのである。今でもこの武術は伝えられ、日本各地に普(あまね)く道場を持って発展している。先日その杖道大会が開かれたので見学に出かけてきた。しかし、自分の予想とは大きく外れ、とてもとても武蔵と火花を散らす格闘を演じた武術とは思えない。「型」ばかりの、単なるお稽古ごとのようなのである。
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