御徒町 燕湯
三河島 雲翠泉(うんすいせん)
東尾久 やまと湯
極楽、極楽・・・
谷中 世界湯
北千住 大黒湯
 家に風呂が付いておらず、銭湯が休みとなれば仕方なく流しの瞬間湯沸かし器でシャンプーをする。仕上げのリンスをしようとすると間違えてママレモンを頭にかけた・・・これは円左衛門のネタである。銭湯は良い。確かに好きな時に入れないし、第一に料金が高い。だけど、それらさっ引けばどうだぃ。広々として、ゆったりと手足を伸ばして湯に浸かれて、ジェットバス、薬湯、サウナに水風呂、露天風呂。目を四方にこらせば高い格天井(ごうてんじょう)、タイル絵、壁いっぱいの富士山の画、夏場になれば風呂上がりの脱衣場にはよく利いたクーラーと。垢落としとしての銭湯は確実に少なくなる、これは住宅事情の流れとしてしょうがない。しかし、身近なレジャーとしての銭湯は確実に残る、いや増えていく。何せ、ここには神様さえもくたびれた心と体を癒そうと訪れる、日本人にはなくてはならない大切な憩いの場所だから。
 「千と千尋の神隠し」の舞台となるのは大きな銭湯である。主人公の少女、千尋が奉公するお湯屋には色んな八百万(やおよろず)の神様、のみならず化け物たちさえもが賑々(にぎにぎ)しく訪れて垢を落としてゆく。漫画繋がりで言うと、中崎たつやという漫画家が「私はクリスチャンですがお湯に入ると思わず、ああ、極楽極楽・・・とつぶやいてしまいます」という【絵で紹介できないのが申し訳ない】のを読んだことがある。キリストを信仰するなら羽の付いたかわゆらしい天子が舞い飛ぶ『天国』と口にするべきところだが、それを思わず『極楽』となってしまう。
今,日本で3人だけという「背景絵師」の一人、早川利光氏が描く。
 今回は神様とお湯屋との繋がりについてである。衝撃的な日本古来から伝わるレジェンドを紹介する。聖武(しょうむ)天皇の后、光明皇后(こうみょうこうごう 西暦701〜760)が大願を発せられて、千人にお湯を振る舞い自らが垢を流そうと努められた。ちょうど千人目に現れたのが汚い乞食。しかも体中膿だらけで、それを口で吸い取れという。皇后が願いを叶えてやるとといい、神々(こうごう)しく光を放ち紫雲(しうん)の中に消えていった・・・。となれば「ははあ、宮崎駿夫はここからネタを仕入れたな!」である。千尋が垢を落としてやったのはカオナシ【まるきしエコノミックアニマル日本人】という汚き者であり、それをきれいに精進させてやる、という筋だ。
お母さんには嬉しいベビー
台が
床は松材の赤
足下が美しく輝く
今では珍しい脱衣籠が
流しの真ん中に湯船も数少ない
念願かなって番台から覗く女湯
 落語の「湯屋番」に出てくる若旦那夢の舞台、番台。台東区谷中の世界湯、ここには長い間通わせていただいたが、番台からフロントに変わったのは、つい最近の平成十二、三年あたりからだったと思う。大きな富士山の絵に高い格天井(ごうてんじょう)、外観はお寺さんかと見間違える破風(はふ)造り【立派な瓦屋根のこしらえ】。これらは皆、光明(こうみょう)皇后が庶人に与えた「施浴(せよく)」という考えに帰結するらしい。体を清める沐浴(もくよく)を仏教の教えの中の一つとし寺院が始め、庶民にもその功徳を分け与える。奈良、東大寺には重要文化財の一つとして大湯屋(おおゆや)という風呂施設が残されている。
キング・オブ・銭湯と称されるこの貫禄。
瓦屋根の下の段が破風(はふ)造りと呼
ばれる。
格天井の升目の一つ一つには
絵が描かれている。
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看板として弓矢が下がっている。江戸時代そのままである。
東尾久 昭和湯
 江戸時代に爆発的に増えた銭湯。当時柘榴口(ざくろぐち)というものが洗い場と湯船の境を仕切っていた。ここに大変に華美な装飾を施したそうで、上部が破風(はふ)造りの屋根の形、両柱は黒または朱の漆塗り、前面の板には箔絵(はくえ)を描くという懲りよう。番台に座る番頭さんを当時は「賓頭廬(びんづる)さま【釈迦の弟子で十六羅漢の一人)】と称えたそうな。これら銭湯につき物の重要アイテム番台、優雅な絵、お寺さん造り等々は、それだけのありがたみを今に伝えようとする、その名残なのである。
早朝6時より開店。地元のお客様は少なく、遠くから自動車でひとっぷろ浴びに来る。
すごく健康志向の強いお湯屋さんなのである。
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復活した柘榴口(ざくろぐち)
中は蒸し風呂である。
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上落合 松の湯
早川氏の仕事風景
クリックすると早川氏へのインタヴューへ
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