それにしても「蒟蒻問答」のタイトルの上手さはどうだろう。われら煩悩の塊からすれば、禅問答とはまるで蒟蒻のように捉えどころがなく、そして腹に入れても身にも皮にもなかなかならない。そして親分の問答の戦法として「唖(おし)に内障(そこひ)に聾(つんぼ)になる」という。これは達磨(だるま)大師の「面壁九年」悟りを開くまでなんと九年もの長い間、壁とにらめっこをして、人との接触を絶ったのとよく似ているではないか。どこまでがシャレで、どこまでマジか?しかし、宗教というこの難しい問題にこれほど肉薄し、また茶にして笑わせる力とは。これぞ文化という人間の生み出す心の豊かさの積み上げ、とでも言うべきものか。
 落語「蒟蒻問答」において一番の山場はやはり蒟蒻屋の親分と旅僧の問答の場面。「法界(人により東海)に魚あり。尾も無く頭も無く、中の支骨(しこつ)を絶つ」これは子供っぽいなぞなぞである。漢字の【魚】これの頭と尾(クと下の四つの点々)を取ると【田】になり、さらに支骨というから縦棒を取ると【日】になる(縦横の棒全て取ると【口】)。しかし、「法華経五字(ほけきょうごじ)の説法は八遍(はっぺん)に閉じ、松風(しょうふう)の二道(にどう)は松に声ありや、松また風を生むや・・・」にくると一気に禅の本質まで迫る問答となる。
面壁九年(蒟蒻問答)
般若。サンスクリット語では「パンニャ」と発音する。それを中国の者が当て字をしたもの。般若の意味としては知恵を表す。酒を飲むと知恵が付くからというような意味合いからではない。禅宗の僧は一般に酒好きと言われる。特に臨済宗(りんざいしゅう)は曹洞宗(そうとうしゅう)と違い町中に寺を構える。浮き世から目を背けずに法を修めようとする姿勢からきたもの。かつ、禅宗は人に階級を作らずに横並びという考えが強い。それは「絶対者」の存在をも否定し、二者相対立するというものの考えも認めない。自分の実体験を通じて学び、たとえ師と仰ぐものでも必ず上位とはせず、乗り越えべきとする考えはどこか破壊的である。酒に関してもそうであり、「葷酒山門(くんしゅさんもん)に入るを許さず(匂いのきつい食べ物、特に肉と魚そして酒は禁止)」とはいえ、それさえも疑問を投げかけてやろうという態度が現れているのだとする。
法華経五字とは妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)を表す。八遍とは意味不明である。『松風の二道は松に声ありや、松また風を生むや』は松の木の枝が風に吹かれて音を立てるが、それは松が鳴ったか、風が鳴ったか?禅宗ではどちらか片一方であるという答えはないとされる。似たような問いに両手を打って、右が鳴ったか左が鳴ったかというのがある。上と同じで、右でも左でも正解とされない。片手を師の前に差し出し、『答えは貴方が見つけて下さい』となるそうだ。他の問答では『犬に仏性(ぶっしょう)はあるかないか』と聞く。答えはある時には有であり、かの時には無いとなる。この辺に禅問答らしいファジーな、他の者には理解されにくい本質がある。前に述べたように、二者が相対する関係を否定するので、どちらかひとつ、という選択は禅宗では不可なのだ。そして不立文字(ふりゅうもんじ)、字句にとらわれずに以心伝心(いしんでんしん)にて本質を探るのがたてまえなので、他から見た第三者には理解されないものにならざるを得ない。明確な存在の否定とでも言うべきか。また答えのみならず、出す問いも時により微妙に違いがあり、これも主観的なものとなり、問いも答えも同一性がなく、ファジーなのである。『いずれが理か、いずれが非か』もそれゆえに答えは存在しない。主観的なその場での思いにより答えは違う。主体となる心を持つ本人が全てを決定する存在となる。「主観」が何よりも優位に立つのである。
 平井ご住職、八遍の意味が分からない時には、隣の部屋まで腰を上げて調べに行くという、不明な点は決してあて推量でものを答えようとはなさらない。特に庭詰めとは?という問いに対しては、自らが玄関に伏して実演してくださったのには恐れ入ってしまった。庭詰めとは入門する時には必ずくぐらなければならない儀式で、その場に二日から三日は同じ姿勢をとらねばならないそうだ。禅の奥義とは何か?とてもこれら安直なインタビュー程度では埒が明かない。禅宗についての解説の本、あげる経の数も他宗に比べて断然多いという。というのも不立文字であるがゆえに捉えどころが無く、それがゆえに説明に文字、文句の膨大さを必要とする。結局は以心伝心、分りたいのなら入門する以外はないのであろう。
 ねん
ぺき
めん
もんどう
こんにゃく 
台東区谷中全生庵(ぜんしょうあん)の平井正修(しょうしゅう)住職にインタビュー(1996.12.26)
全15問であったが、ここでは一番濃いと思われる2問だけを抜粋する。
1 般若湯(はんにゃとう 酒の符丁)の由来は?
2 「法華経五字の説法は八遍に閉じ、松風の二道は松に 声ありや、松また
 風を生むや。有無の二道は禅家悟道にして、いずれが理なるやいずれが
 非なるや」の意味はどう解釈するか?

平井正修住職
庭詰めの形
安中 蓮華寺
栄朝禅師開基
群馬県指定文化財
五輪塔(ごりんのとう)
安中 曹洞宗 松岸寺
「蒟蒻問答」の寺男権助
言うところの、この寺では
問答しますという看板
「葷酒山門に入るを許さず」
安中
普門寺
鐘楼
「蒟蒻問答」で寺の本堂の天井に
「格天井の雲竜は・・・」とある。
これは浅草寺の賽銭箱の真上に
描かれている格天井の一匹竜。
落語トリビア(落語に関する無駄知識)

蒟蒻を英語でなんと言うか?とあるイギリス人にお伺いすると[devil's-tongue jelly]つまり悪魔の舌のゼリー・・・どんな怖い食べ物なんじゃい!食い物として認めてない。ちなみに、Yahooの辞書検索によると[a gelatinous food made from devil's-tongue starch] 蒟蒻粉から作られるゼラチン状の食べ物
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