天明狂歌

        
『世の中は色と酒とが敵(かたき)なりどふぞ敵にめぐりあひたい』蜀山人(しょくさんじん  1749〜1823)。何やら李白(りはく)杜甫(とほ)時代の古代中国詩人のようである。

                                                          

「耳袋(みみぶくろ)」根岸肥前守(ねぎしひぜんのかみ)のページでもとりあげた狂歌全盛期の天明(てんめい)を生きた、いや狂歌を盛んにならしめた本人を今回は取り上げる。

                                      

田沼意次(たぬまおきつぐ)と松平定信(まつだいらさだのぶ)。この二人を対比させると、江戸時代そのものを背負って生まれてきたような、そして好対照なキャラ(人格)であるのが面白い。意次の江戸バブルを出現させた面妖な怪物に対して、定信が観念で社会にたがをはめようとした潔癖君主。

                                                    

そして蜀山人はこの二人の狭間にちょうどはまって“田沼定信”を演じて一生を送るというはめになってしまうのである。

                                     
                
生い立ちは貧しい御家人(ごけにん)。将軍直属の下級武士。「われ等もとより猫の額ほどの地にすめば馬の屁をかぐ長屋住居にもあらず。暗闇からひく牛ごみのほとり・・・」と牛込仲御徒町(今の新宿区北町)の住まいを自ら表す。

                                                    

さて、そこからなんとか抜け出したいと少年時代は勉学にいそしむ。元々聡く文章能力に恵まれていたので、すぐさま頭角を現した。

                                                    

そしてそこに「君は戯作(げさく)の才能あるんじゃない」と示唆したのが、なんとあの平賀源内(ひらがげんない)だという。英雄は英雄を知る。言われるままに出版をすると次々にヒットして、若干19歳にして時代の寵児へとのし上がった。

                   

『詩は詩仏(しぶつ)書は米庵(べいあん)に狂歌俺芸者小万(こまん)に料理八百善(やおぜん)』江戸の中で今を時めくものを並べ、その中に自分の狂歌が入ると言い切っている。また芭蕉(ばしょう)の『はつしぐれ猿も小蓑(こみの)をほしげなり』をもじり『俳諧の猿の小蓑もこの比(ごろ)は狂歌衣(ころも)をほしげなりけり』我が世の春、大変な自信である。

                        

田沼意次の息のかかった幕臣土山宗次郎がパトロンについて、面白いように金回りが良くなる。酒に溺れ、吉原の遊女を身請けして妾として囲う。さあこれからの後半生、雪崩の勢いで墜ちてゆく、絵に描いたような芸術家としての生涯を待ち望むところである。

                    

『浅間さんなぜそのやうに焼けなんすいわふ(言おう)いわふ(硫黄)がつもりつもって』なぞ脳天気なことを言ってるが、浅間山の大噴火に端を発した天明の大飢饉、打ち壊し騒動と足下が大いにぐらつく。

                           

案の定小説のような転機、田沼の失脚である。定信の粛正が始まり、タニマチの土山は死罪に処せられた。遊び金の出所を突っつかれると我が身が危ない。

                           

するとどうでしょ、この蜀山先生。20年間の放蕩(ほうとう)絶頂期があったのかしらん?という顔で、寛政六年(1794)46歳の時、定信が教育改革の一つとして施行した幕府の人材登用試験を白髪頭で受験したのである。以下死ぬまでを有能な国家公務員、幕吏として過ごす。

                   

ネット検索で当てた中の「蜀山家集」
http://www.j-texts.com/kinsei/shokuskah.html#chap03
藤井乙男氏の解説によると「狂は高遠なる理想を抱きながら、それを実現する意力をもたない人々の心境を意味する」漢和辞典にも同じくである。

                           

狂歌というのが単なるお遊びの世界でのみ成立する、というのを示している。蜀山人は成ろうとして狂歌師を志したのではない。時代の流れであり、人気という得体の知れないものが彼を天に昇らしめた。

                           

「狂歌ばかりはいひ立ての一芸にして、王侯大人の掛物(掛け軸)をよごし・・犬うつ童も扇を出し・・・」こんな芸ごとで世間中がサインをねだってくるのに辟易(へきえき)している。彼は狂歌の本質を表し、狂歌の限界を体現したにすぎない。

                    

『いざさらば円(まる)めし雪と身を成して浮き世の中を転げあるかん』蜀山人。『いざさらば雪見に転ぶ所まで』芭蕉。雪だるまに例えて、転がりながら太ってゆく我が様を笑っている。

                           

芭蕉は風羅坊(ふうらぼう)と自らを称して、人生を旅の中に放り出して句を作り続けた。そして、その熱き志は正岡子規によって受け継がれる。蜀山人は狂歌をパロディと位置づけた。今俳句はシニア世代からの趣味として格好のものであり、恥ずかしながら自分も句会に参加する身である。しかし、狂歌というのは研究の対象として残されたものであり、一般大衆の中では生きてはいない。

                           

「生き過ぎて七十五年食ひつぶし限りしられぬ天地の恩」 蜀山人辞世。


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天明狂歌を栄えさせた者たち
(左) 平秩東作(へづつとうさく)『鴨ハみえねと西行の歌ゆへに目にたつ沢の秋の夕くれ』
(中) 宿屋飯盛(やどやのめしもり)『などてかくわかれの足のおもたきや首ハ自由にふりかへれども』
(右) 朱楽菅江(あけらかんこう)『紅葉々ハ千しほ百しほしほしみてからにしきとや人のみるらん』
蜀山人肖像画
本名は大田直次郎。大田南畝(なんぽ)。狂歌名としては四方赤良(よものあから)。戯作名は山手馬鹿人 (ばかひと) 。狂詩名は寝惚 (ねぼけ) 先生
(左)今も神楽坂(出生地)界隈は出版社が多い。
(右)蜀山人の生家前の通り。このあたりの建築現場からは
   江戸時代の什器、さらには土器まで出てくると言う。
東京日野「日野館(やかた)」新店 とろろせいろ
蜀山人のお気に入りの蕎麦屋。食通でも知られた。
『そばのこのから天竺はいざしらずこれ日のもとの日野の本郷』
http://www.manabook.jp/ajinotes-syokusanjin.htm
都内で目にする蜀山人よすが
(左上)浅草寺境内、山東京伝机塚の碑。裏側に彼の略伝の銘記をする。
(左下)向島百花園入り口にかかる扁額「花屋敷」
(右上)大田南畝の水鉢。1820年(文政3年)ご例祭の時、新宿熊野神社に奉納されたもので、彼の銘文がある。

蜀山人の墓
文京区白山の本念寺
蜀山人終焉の地
今は日立製作所の高層ビルが建つ。
『元気にはぴかりと光り輝いて死後にはでんき蜀山の碑』 円左衛門
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